伝えることの難しさ

久しぶりの更新です

 

日本では師走という言葉があり、年の終わりの12月は、

師匠ですら走りまわるほど忙しいと言われています。

スウェーデンには、そういう言葉はないですが、

状況はどこも同じなようで、怒涛のような時間が過ぎましたが、

今はゆっくりと過ごしています。

 

最近、伝えることの難しさに気づかされます。

なぜ、怒涛のような12月を過ごしていたかというと、

留学生の日本人同士で、現地や留学生向けの日本文化紹介パーティーなるものを

行っていたからです。

会場の手配からチケット販売、外部との連携などなど、

山のように積まれた仕事は、パーティが終わった今ですら残っています。

こうした仕事は話し合いという形で進めていくのが世の常だと思うのですが、

話し合いの過程でいくつもの軋轢が生まれていました。

 

言ったはずのことが伝わっていない、

昨日言ってたことと今日言ってることが変わっている、

伝えるための書類を書いても見ていない。

挙げ始めれば枚挙にいとまがありません。

相手がしたいと思っている行動も、こちらからすれば非合理的だし、

それに対してこちらから対案を提示すると、斜め上からの反論が飛んできます。

 

何とか終わったというのが正直な感想ですが、

一つ間違えれば計画が頓挫しててもおかしくないレベルでした。

 

こうしてゆっくりブログを書いている今思うのは、

意思疎通の難しさです。

どうやったら伝わっていたのだろうか。

まず反省するべきは、コミュニケーションができないと思って

話すのをあきらめていたことです。

基本的に、相手が必要な情報、いろんな視点からの見解を持ったうえで

話していると想定していますが、そうではないんだなと思いました。

自分からしたら当たり前のことでも伝える努力をしよう、

そう感じました。

また、議論というのに自分の中で抵抗があるようです。

自分の意見を否定されると悲しい気持ちになってしまっていました。

その原因として、意見そのものではなく自分が否定されたような気持ちに

なってしまうからかもしれません。

話し合いへの恐怖心はすぐ溶けるものではないと思いますが、

ゆっくり付き合って消していけたらなと思います。

 

最後にもう一つ。

どうやら自分には、自分の意見への自信のなさが透けて見えるようです。

例えばですが、自分の意見を言うにしても、前年の企画書を読んだうえで、

「前の年はこうしていた、こうするべきだ」という風に

誰かの意見を踏まえたうえで何かを話していました。

また、何かわからないことがあると、

すぐネットに頼って解決策を見出そうとしてしまうのも良くないと思います。

自分で考える手間を放棄して、外から答えをもらおうとしているのです。

少し手間はかかりますが、自分で筋の通った考えを述べる力を養っていきたいものです。

 

自分の意見への自信の無さと議論への恐怖心はどちらかが伸びれば

消えていきそうな気がしなくもないです。

少しでも自分で考えて、発信していく努力を通して

気長にしっかり意見を述べれる人間になっていきたいものです。

 

その一環としてこのブログを書き、自分の頭の中の思考の整理をして、

発信する努力をしている次第であります。